でぃすかばー・とうきょう
歩いて見ました東京の街

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 このページは2002年8月12日に86歳でその生涯を閉じた父・田口政典の幼少から80年間にわたる写真である。

下は我が家のアルバムに貼ってあった明治末期から昭和初期の写真をスキャンして掲載した。当時の日本人の人相や服装などがわかる。
写真を見る限りでは大正から昭和初期までは和服を着ていたようである。
よくよく見ると最古の写真は百年以上も前のものであった。


明治41(1907)年ころ。
後ろの男性は政典の父政吉
右端は石井トラ(筆者の母の母)

大正8(1919)年ころ
政典4歳

政典大正10(1921)年ころ・姉桂と

政典大正10(1921)年ころ

昭和3(1928)年新宿御苑

政典昭和4(1929)年

同僚と政典 昭和12(1937)年
この当時にはイケメンという言葉がなかった。

婚約 昭和14(1939)年

結婚式 昭和15(1940)年10月5日

婚約 昭和14(1939)年

不肖筆者 昭和24(1949)年1月3日

政典 2000年9月8日  84歳誕生日

筆者の父と母方の祖母とはいとこどうしであった。昔はこのような結婚が多かったと聞く。

父は1915年に早稲田鶴巻町に生まれた。祖父・政吉は大日本印刷の英文植字工であったため、自宅には英語の本がたくさんあったとのこと。
1923年の関東大震災の時に、祖父は父を連れて九段坂上まで行き「よく見ておきなさい。ここから両国の国技館まで東京の街が一望する機会は二度とない」といったそうな。

同大震災で住んでいた横須賀の家が倒壊し、母は両親とともに青森の大湊に一時避難した。その後、横須賀の海軍工廠でディーゼルエンジンの技師をしていた祖父は横須賀市三春町に自宅を立て移り住んだ。父は兄たちとともにこの家を夏にはよく訪れていたが、同年輩の母の姉たちとはよく遊んでいたが、母はミソッカス扱いだったと母はぼやいていた。母の卒業した横須賀市立山崎小学校の後輩の著名人には小泉純一郎元首相がいる。

政吉が昭和五(1930)年に他界したあとに発生した1929年の世界大恐慌の影響で、国内では就職先もなく、政典は兄について満州に渡り、満鉄に電気技師として就職し、1946年まで滞在した。満州で二人の子供を持ったが、戦後の食糧難の時代に二人とも亡くしてしまった。

この年代にして写真があるのは、石井トラ(筆者の母方祖母)の弟である石井辰夫氏も写真が大好きで、父の実家にもしょっちゅう遊びに来ていたからだそうだ。きしくも祖母は明治23年11月15日生まれで、筆者は昭和23年11月15日生まれでちょうど58歳違いであった。

大正8年の写真に写っている男の子が78年経つと最後の写真にようになる。写真からはこの二人は別人ではあるが、社会通念(常識)的には同一人物なのである。でもどうしても同一人物とは思えない。

もともと写真が大好きで、その整理などもきちんとやってくれていたので、遺族にとってはとてもありがたい。

父が満鉄で働いていた当時は鉄道が電化されていなかったので、電気の仕事はおもに駅や機関庫、種々の工場などの照明と動力設備関係であった。
おもな業績は(奉天)瀋陽駅の待合室の内部照明の計画・設計・施工管理・維持管理など。下の写真に示すものと思われる。生前、天井に光の軟らかい間接照明を用いたと、自慢話をよくしていたので記憶にある。建物外観から見るに、ハルピンなどのロシアが作った建物に負けまいとして立派なものを作ったのであろう。
写真は2000年ころに現地の友人に頼んで駅の外観と内部を撮影してもらったもの。


瀋陽駅

駅構内

駅構内

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2009-11-10 作成 
2010-10-21 修正

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