でぃすかばー・とうきょう
歩いて見ました東京の街

第四章 港区
補-06 (07/19)
青山墓地 <港区南青山 2-32-2>

04-06-01-1落合直文の墓近景 1971-12-18

04-06-01-2吉田茂の墓近景 1973-07-13

04-06-01-3加藤高明の墓近景 1973-07-13

04-06-02-1忠犬ハチ公の墓近景 1973-07-13

04-06-02-2飼主上野英三の墓近景 1973-07-13

04-06-02-3忠犬ハチ公の墓近景 1973-07-13

04-06-03-1大鳥圭介の墓近景 1973-07-13

04-06-03-2大鳥圭介の墓近景 1973-07-13

04-06-03-3岡本修堂の墓近景 1973-07-13

04-06-04-1御木本恵吉の墓近景 1975-08-12

04-06-04-2吉田茂の墓遠景 1975-08-12

04-06-04-3志賀直哉の墓遠景 1975-08-12

04-06-05-1横川省三の墓遠景 1975-08-12

04-06-05-2横川省三の墓近景 1975-08-12
初名は勇治。勇次のペンネームで活動することもあった。旧姓は三田村、山田。
若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件により投獄された。また、1887年には保安条例施行に伴い、伊東圭介と共に皇居周囲三里以内から追放された。
その後朝日新聞の新聞記者として、郡司成忠の千島列島探検隊の特派員や日清戦争の従軍記者などの活動をする。その後記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。日露戦争開戦に際しては内田康哉に招かれて特別任務班第六班班長となり、沖禎介とともに特殊工作に従事する。ロシア軍の輸送鉄道爆破のため、ラマ僧に変装して満州に潜伏するが、捕獲されハルピンで処刑された。

04-06-06-1沖禎介の墓遠景 1975-08-12

04-06-06-2沖禎介の墓近景 1975-08-12

04-06-06-3中江兆民の墓近景 1975-08-12

04-06-07-1落合直文の墓近景 1975-08-12

04-06-07-2落合直文の墓近景 1975-08-12
落合 直文(おちあい なおぶみ、文久元年11月15日(1861年12月16日) - 明治36年(1903年)12月16日)は、日本の歌人、国文学者である。元の名は鮎貝盛光といい、朝鮮語学者の鮎貝房之進は実弟。
1881年(明治14年)、上京し、翌年には東京帝大文科大学古典講習科に入学、1884年(明治17年)、中退し入営、3年間の軍務をつとめる。1888年(明治21年)、伊勢神宮教院時代の師・松野勇雄に招かれ皇典講究所(現國學院大學)の教師となり教育者・国文学者としての道を歩む。翌年からは第一高等中学校、東京専門学校(現早稲田大学)、東京外語学校(現東京外国語大学)、跡見女学校(現跡見学園女子大学)など多くの学校にて教鞭をとる傍ら、歌集、文学全書の刊行など多彩な文筆活動を展開した。とりわけ 1889年(明治22年)には、森鴎外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』の夏期付録)を刊行した

04-06-08-1長岡外史の墓近景 1975-08-12

04-06-08-2長岡外史の墓近景 1975-08-12
長岡 外史(ながおか がいし、安政5年5月13日(1858年6月23日) - 昭和8年(1933年)4月21日)は明治、大正期の陸軍軍人、政治家。
周防国都濃郡末武村(山口県下松市)出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。明倫館を経て、明治11年(1878年)、陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業。日清戦争では大島混成旅団の参謀、明治30年(1897年)には軍務局第2軍事課長を勤め、ドイツ派遣を経験する。明治35年(1902年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長。明治41年(1908年)には軍務局長となり、翌年には陸軍中将に昇進。臨時軍用気球研究会の初代会長を兼務した。次いで第13、16師団長を務め、大正5年(1916年)には予備役となる。大正13年(1924年)の第15回衆議院議員総選挙で当選し、議員となる。昭和8年(1933年)、76歳で死去した。

04-06-09-1西崎緑の墓近景 1975-08-12

04-06-09-2西崎緑の墓近景 1975-08-12

04-06-10-1福島安正の墓遠景 1975-08-12

04-06-10-2福島安正の墓近景 1975-08-12
福島 安正(ふくしま やすまさ、1852年10月27日(嘉永5年9月15日) - 1919年(大正8年)2月19日)は、日本の陸軍軍人。
1886年(明治19年)にはインド、ビルマ方面を視察の上、翌1887年(明治20年)にはドイツのベルリン公使館に駐在、公使の西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設の情報などを報告する。1892年(明治25年)の少佐時代には、帰国に際し、冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長の川上操六らに報告する。

04-06-11-1市川団十郎の墓近景 1975-08-12

04-06-11-2市川団十郎の墓誌近景 1975-08-12

04-06-12-1市川中車の墓近景 1975-08-12

04-06-12-2市川中車の墓詳細 1975-08-12

04-06-13-1庵原青団の墓近景 1976-01-05

04-06-13-2庵原青団の墓近景 1976-01-05

04-06-13-3小杉榲邨(すぎむら)の墓近景 1976-01-05

04-06-14-1小杉榲邨の墓近景 1976-01-05

04-06-14-2山路愛山の墓近景 1976-01-05

04-06-14-3山路愛山の墓近景 1976-01-05

04-06-15-1武者小路公香の墓近景 1976-01-05

04-06-15-2内藤鳴雪の墓近景 1976-01-05

04-06-15-3内藤鳴雪の墓詳細 1976-01-05

04-06-16-1大野酒竹の墓近景 1976-01-05

04-06-16-2大野酒竹の墓遠景 1976-01-05

04-06-16-3三宅雪嶺の墓近景 1976-01-05

04-06-17-1西周の墓近景 1976-01-05

04-06-17-2西周の墓誌詳細 1976-01-05

04-06-17-3松方正義の墓近景 1976-01-05

04-06-18-1藤村操の墓近景 1976-01-05

04-06-18-2藤村操君絶命の辞詳細 1976-01-05
藤村 操(ふじむら みさお、1886年7月 - 1903年5月22日)は北海道出身の旧制一高の学生。華厳の滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。
自殺直後は、遺書「巌頭之感」の影響もあって、藤村は哲学的な悩みによって自殺をしたものと推測された。今日でもこのように考える者は多い。しかし、自殺の前に藤村が失恋していたことが明らかになり、これを自殺の原因と考える者もいる。恋慕の相手は、菊池大麓の長女多美子である。なお、藤村の自殺の年に多美子は美濃部達吉と結婚した。
<wikipedia>

04-06-19-11片山潜の墓近景 1976-02-03

04-06-19-2片山潜の墓近景 1976-02-03

04-06-19-3片山潜の墓詳細 1976-02-03

04-06-20-1ジェームスタ゜ンの墓近景 1976-02-03

04-06-20-2植木枝盛の墓 1976-03-04

04-06-21-1三島通庸の墓遠景 1976-03-08

04-06-21-2三島通庸の墓近景 1976-03-08

04-06-21-3三島通庸の墓近景 1976-03-08

04-06-22-1上島草人の墓近景 1976-03-08

04-06-22-2大和田建樹の墓近景 1976-04-15

04-06-22-3大和田建樹の墓近景 1976-04-15

04-06-23-1浜田彦蔵の墓近景 1976-04-15

04-06-23-2浜田e子の碑詳細 1976-04-15

04-06-23-3浜田彦蔵の墓近景 1976-04-15

04-06-24-1高崎正風の墓遠景 1976-04-15

04-06-24-2高崎正風の墓近景 1976-04-15

04-06-24-3田中英光の墓近景 1976-07-XX

04-06-25-1広瀬武夫中佐の墓遠景 1978-08-15

04-06-25-2広瀬武夫中佐の墓詳細 1978-08-15

04-06-25-3広瀬武夫中佐の墓近景 1978-08-15

04-06-26-1松岡洋右の墓遠景 1978-08-15

04-06-26-2松岡洋右の墓近景 1978-08-15

04-06-26-3黒田清隆の墓遠景 1978-08-15

04-06-27-1吉井勇の墓遠景 1978-08-15

04-06-27-2吉井勇の墓近景 1978-08-15

04-06-27-3吉井勇の墓詳細 1978-08-15

04-06-28-1佐野常民の墓遠景 1978-08-15

04-06-28-2佐野常民の墓近景 1978-08-15

04-06-28-3川上予六の墓近景 1978-08-15

04-06-29-1森永太一郎の墓遠景 1978-08-15

04-06-29-2森永太一郎の墓近景 1978-08-15

04-06-29-3高峰譲吉の墓遠景 1978-08-15

04-06-30-1小磯国昭の墓遠景 1978-08-15

04-06-30-2小磯国昭の墓近景 1978-08-15

04-06-30-3河合武雄の墓遠景 1978-08-15

04-06-31-1緒方竹虎の墓遠景 1978-08-15

04-06-32-1木下尚江の墓遠景 1979-09-13

04-06-32-2下尚江の墓詳細 1979-09-13

04-06-32-3下尚江の墓近景 1979-09-13

04-06-33-1赤い靴履いていた女の子の墓近景 1981-02-04

04-06-33-2赤い靴履いていた女の子の墓遠景 1981-02-04

04-06-33-3金玉均の墓近景 1981-02-04

04-06-34-1齊藤茂吉の墓遠景 1981-12-13

04-06-34-2齊藤茂吉の墓近景 1981-12-13
明治記念館 (憲法記念館) <港区元赤坂2-2-23>

04-06-35-1明治記念館遠景 1968-04-07

04-06-35-2憲法記念館の碑近景 1968-04-07

04-06-36-1明治記念館入口遠景 1987-02-24

04-06-36-2憲法記念館の碑遠景 1987-02-24

04-06-36-3憲法記念館の碑詳細 1987-02-24

04-06-37-1明治記念館庭園の景 1987-02-24

04-06-37-2明治記念館遠景 1987-02-24

04-06-37-3明治記念館遠景 1987-02-24

04-06-38-1信濃町駅からの景 1992-03-10

04-06-38-21明治記念館入口付近 1992-03-10

04-06-38-3明治記念館遠景 1992-03-10

04-06-39-1明治記念館遠景 1992-03-10

04-06-39-2明治記念館館内の景 1992-03-10

04-06-40-ひとつばたご案内板 1992-03-10

04-06-40-2ひとつばたごの碑 1992-03-10
慶應大学・演説館 <港区三田 2-15-45 >

04-06-41-1慶應大学正門遠景 1968-05-31

04-06-41-2慶應大学構内の景 1968-05-31

04-06-41-3慶應大学演説館遠景 1968-05-31

04-06-42-1慶應大学演説館近景 1968-05-31

04-06-42-2慶應大学演説館近景 1968-05-31

04-06-42-3慶應大学演説館案内板 1968-05-31
浅岡のまま焚きの井戸 (先代萩) <港区区役所前庭>

04-06-43-1飯焚きの井戸遠景 1968-07-21

04-06-43-2飯焚きの井戸近景 1968-07-21

04-06-43-3飯焚きの井戸案内板 1968-07-21

04-06-44-1飯焚きの井戸遠景 1976-04-05

04-06-44-2区役所入り口 1987-03-19

04-06-45-1区役所全景 1987-03-19

04-06-45-2区役所前庭 1987-03-19

04-06-46-1区役所前庭 1987-03-19

04-06-46-2区役所前庭 1987-03-19

04-06-46-3飯焚きの井戸近景 1987-03-19

04-06-47-1区役所前の松原 1987-03-19

04-06-47-2区役所前の松原の案内板 1987-03-19

04-06-47-3区役所前の松原 1987-03-19
赤坂離宮 (迎賓館) <>

04-06-48-1若葉東公園から望む 1968-09-18

04-06-48-2若葉東公園から望む 1968-09-18

04-06-48-3赤坂離宮全景 1968-09-18

04-06-49-1赤坂離宮遠景 1968-09-18

04-06-49-2赤坂離宮遠景 1968-09-18

04-06-49-3紀国坂方面出口 1986-06-05

04-06-50-1若葉東公園の景 1989-03-29

04-06-50-2若葉東公園の景 1989-03-29

04-06-50-3若葉東公園の景 1989-03-29

04-06-51-1若葉東公園の景 1989-03-29

04-06-51-2若葉東公園の景 1989-03-29

04-06-51-3若葉東公園の景 1989-03-29
乃木大将産湯の井戸・赤穂浪士切腹の地 <港区六本木 6-9>

04-06-52-1芳?園入口近景 1968-12-01

04-06-52-2芳?園案内板 1968-12-01

04-06-52-3乃木大将産湯の井戸近景 1968-12-01

04-06-53-1乃木大将と辻占売り 1968-12-01

04-06-53-2乃木大将と辻占売り 1968-12-01

04-06-53-3乃木大将と辻占売り由来記 1968-12-01

04-06-54-1赤穂浪士切腹の地 1968-12-01

04-06-54-2赤穂浪士切腹の地標柱遠景 1968-12-01

04-06-54-3赤穂浪士切腹の地標柱近景 1968-12-01

04-06-55-1秀芳不孤の碑近景 1968-12-01

04-06-55-2秀芳不孤の碑近景 1968-12-01

04-06-56-1赤穂浪士切腹の地 1970-03-10

04-06-56-2庭園入口遠景 1987-04-08

04-06-56-3庭園園内の景 1987-04-08

04-06-57-1乃木大将産湯の井戸近景 1987-04-08

04-06-57-2乃木大将と辻占売り 1987-04-08

04-06-57-3赤穂浪士切腹の地の標柱 1987-04-08
水野監物屋敷跡・赤穂浪士切腹の地 <港区芝5-20-20>

04-06-58-1赤穂浪士切腹の地 墓石 1968-12-13

04-06-58-2赤穂浪士切腹の地案内板 1968-12-13

04-06-58-3赤穂浪士切腹の地 遠景 1968-12-13

04-06-59-1赤穂浪士切腹の地案内板 1980-06-22
間十次郎、神崎与五郎など八名この地で切腹
浅野内匠頭終焉の地・田村屋敷 <港区新橋4-13>

04-06-60-1終焉の地標柱近景 1966-06-26

04-06-60-2終焉の地標柱遠景 1966-06-26

04-06-61-1終焉の地標柱近景 1987-02-20

04-06-61-2終焉の地標柱遠景 1987-02-20
中村碁盤店が新築された

なお表中の日付は写真撮影日を示します。

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2010-04-26 作成 

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