でぃすかばー・とうきょう
歩いて見ました東京の街

第二章 中央区
補-3 (4/11)
金春屋敷跡 <中央区銀座 8-6〜8>

03-03-01-01案内板 1979-03-17

03-03-01-02屋敷跡 1979-03-17

03-03-01-03屋敷跡 1979-03-17
朱座跡 <中央区銀座 7-8>

03-03-02-01朱座跡 1979-03-17

03-03-02-02朱座跡 1979-03-17
小田助四郎は三河(愛知県)の浪人であったが、徳川氏の隠密となって諸国の動静をさぐった。のち明(中国)にわたり朱の製造をまなび帰国。慶長14年(1609)堺で朱座の特権をあたえられ、製造と販売を独占した。江戸ではここで開業していた。
佐久間象山住居跡 <中央区銀座 6-15>

03-03-03-01この一角 1979-03-17
森田座山村座跡 <中央区銀座 6-14>

03-03-04-01この付近 1979-03-17
「むらき」あたりが山村座で、「リコー三愛」あたりが森田座。
森田座・守田座(もりた ざ)は、江戸に存在していた歌舞伎の芝居小屋で、江戸三座のひとつ。
森田座
万治3年 (1660)、森田太郎兵衛(初代森田勘彌)が木挽町五丁目(現在の中央区銀座6丁目・昭和通り西側)に森田座を開場した。天保14年 (1843) に天保の改革で木挽町から猿若町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられた時は負債を抱えており、控櫓の河原崎座が劇場運営を代行していた。
山村座
江戸時代の芝居小屋。江戸四座の一。1642年山村小兵衛が江戸木挽町(こびきちよう)に開いたもの。江島事件のため1714年に廃絶。
青木昆陽住居跡 <中央区銀座 5-13>

03-03-05-01歌舞伎座の前 1979-03-17

03-03-05-02「日の出」のあたり 1979-03-17
春木南溟住居跡 <中央区銀座 4-11>

03-03-06-01住居跡 1979-03-17
春木南溟 はるき‐なんめい
1795‐1878
江戸後期-明治時代の画家。
寛政7年生まれ。春木南湖の子。父の画法をついで山水・花鳥画を得意とした。明治10年第1回内国勧業博覧会に「日光霧降滝図」を出品。明治11年12月12日死去。84歳。江戸出身。名は秀煕、竜。字(あざな)は敬一、子緝。通称は卯之助。別号に耕雲漁者。
<ことばんくから>
京橋遊里跡 <京橋三丁目>

03-03-07-01遊里跡 1979-08-13
江戸期の初頭の慶長の頃には遊女町はなかった。2、3軒分散して男を遊ばせる場所はいくつもあり、10軒以上となると麹町8丁目に14軒ほど、鎌倉河岸に17軒ほど、道三河岸近く(当時は「柳町」と称したという)に20軒ほどの遊里があっただけだった。
 慶長17年(1612)後北条家の浪人という※庄司甚右衛門がこれら遊里を見て回り、京・大坂・駿府には公許の遊里町があるのに江戸が野放し状態では、人は放縦に陥り悪業の巣となるかもしれないから、遊女屋は一ヵ所にまとめ取締りの策を考えるべきと、三ヵ条の建言にして幕府へ提出する。要約すると以下になる。
 1、父兄や主人の眼を忍んで遊蕩する良家の子弟を取り締れる
 2、良家の子女が勾引(かどわか)されて娼妓に売られそうになった場
   合、それを防ぐことができる
 3、大坂方の残党が忍んでくることがあろうから、これを取り締れる
 甚右衛門の建言を幕府が取り上げるのは元和3年(1617)3月と遅かった。しかし、幕府は日本橋葺屋町(ふきやちょう)辺りの2町四方の土地を甚右衛門に与え遊里町とすることを許したのだった。
 その土地は葭(よし)や茅が繁る沼地だった。甚右衛門は土地を埋め立て町家の普請を急ぎ、翌元和4年11月に築造がなる。葭原の地を好字の吉原と名付け遊里町を開いた。
郡代屋敷跡 <中央区日本橋馬喰町 2-7>

03-03-08-01遠景 1979-10-26

03-03-08-02遠景 1979-10-26

03-03-08-03案内板 1979-10-26
検査業務開始の碑 <中央区 8-20>

03-03-09-01碑近景 1979-11-09

03-03-09-02碑遠景 1979-11-09

03-03-09-03碑遠景 1979-11-09
樽屋藤左衛門住居跡 <中央区室町 2-3>

03-03-10-01このビルのあたり 1980-02-13

03-03-10-02このビルのあたり 1980-02-13
樽屋藤左衛門は江戸時代前期の江戸町年寄。
天正(てんしょう)18年(1590)徳川家康にしたがって江戸にはいり、日本橋に屋敷をあたえられて江戸の町々を支配した父水野(のち樽)三四郎の跡をついで、樽屋藤左衛門を名のる。東国33国の枡座(ますざ)の特権をもち、枡改めもおこなった。名は忠元。
奈良屋市右衛門住居跡 <中央区室町 2-4>

03-03-11-01住居跡 1980-02-13

03-03-11-02住居跡 1980-02-13
奈良屋市右衛門は江戸初期の江戸町年寄の祖。由緒書によれば,先祖は大館氏の一族で大和の奈良に居住していたが,徳川家康の三河在住の時代に仕えたという。他の史料によれば,天正10(1582)年の本能寺の変に当たり,堺見物をしていた家康が伊賀を越え岡崎に帰城したとき,小笠原小太郎らが守護したが,市右衛門はその子孫であるという。家康の関東入国(1590)後は日本橋本町1丁目に屋敷地を与えられ,3人の町年寄の筆頭として江戸の町支配を担当した。以後12代にわたり市右衛門と称したが,天保5(1834)年に館の姓を名乗ることが許された。
<ことバンクから>
石町の鐘の跡 <中央区室町 4-4>

03-03-12-01案内板近景 1980-02-13

03-03-12-02案内板遠景 1980-02-13
三島自寛住居跡 <中央区八重洲 1-5>

03-03-13-01この一角 1980-02-21

03-03-13-02この一角 1980-02-21

03-03-13-03この一角 1980-02-21
霊岸島跡 <中央区新川 1-12越前堀公園内>

03-03-14-01案内板遠景 1980-05-07

03-03-14-02案内板詳細 1980-05-07

03-03-14-03碑近景 1980-05-07
自動電話交換機発祥の地 <中央区銀座 1-26>京橋電話局跡

03-03-15-01案内板詳細 1980-07-17

03-03-15-02案内板遠景 1980-07-17

03-03-15-03案内板近景 1980-07-17

03-03-16-01三つ橋跡案内板遠景 1976-10-12

03-03-16-02三つ橋跡案内板詳細 1976-10-12
三つ橋跡案内板は京橋会館(旧京橋電話局)内にある。
芥川龍之介生誕の地 <中央区明石町 10, 11>

03-03-17-01生誕地は道路の中 1980-07-17

03-03-17-02生誕地は道路の中 1980-07-17

03-03-17-03付近の陋屋 1980-07-17

03-03-18-01案内板 1980-11-30
商法講習所跡 <中央区銀座 6-10>

03-03-19-01碑近景 1980-07-17

03-03-19-02碑遠景 1980-07-17

03-03-19-03碑詳細 1980-07-17
専修大学発祥の地 <中央区銀座 3-14>

03-03-20-01碑遠景 1980-10-15

03-03-20-02碑近景 1980-10-15
活字発祥の地 <中央区築地 1-12>

03-03-21-01碑詳細 1980-11-21

03-03-21-02碑遠景 1980-11-21

03-03-21-03碑近景 1980-11-21
日本海軍発祥の地 <中央区築地 5-2>築地市場内

03-03-22-01碑遠景 1980-11-30

03-03-22-02碑近景 1980-11-30
小川橋由来の碑 <中央区久松町 1>

03-03-23-01碑遠景 1981-10-07

03-03-23-02碑詳細 1981-10-07

03-03-23-03碑近景 1981-10-07
小川橋の由来
この地は江戸初期に開さくされた浜町堀で大川に接し物資の輸送路として大きな役割を果たし後に浜町川と呼ばれたところである。
明治十九年十二月三日払暁馬喰町にピストル強盗事件が発生し久松警察署小川佗吉郎巡査は現場に急ぐ途中橘町付近で不審なあんま姿の男を発見格闘となり重傷を負いながら浜町河岸まで追跡しその男を捕えた。この男は清水定吉といい当時十年余にわたりピストル日本刀を持って東京府内を荒し廻りその間の被害は八十余件にのぼり五人を殺害するなど稀代の兇賊であった。
小川巡査はこの功により二階級特進し警部補に任命されたが当時の傷がもとで明治二十一年四月二十六日二十四歳でこの世を去った。東京府民は小川警部補の尊い死を惜しみこの橋を小川橋と名付け不滅の功績を讃えた。 世は移り浜町川も埋め立てられゆかりの橋もその姿を消したがその跡地に由来の碑を建立し小川警部補の功績を顕彰する。
昭和四十九年四月二十六日 建立
<http://www.viva-edo.com/kinenhi/ningyou_tyou/ogawabasi.htmlから>
靴発祥の地 <中央区入船 3-2>

03-03-24-01工場跡 1984-07-02

03-03-24-02碑遠景 1985-05-17

03-03-24-03碑近景 1985-05-17

03-03-25-01碑詳細 1985-05-17
日本銀行創業の地 <中央区日本橋箱崎町 1>

03-03-26-01豊海橋と 1986-07-01

03-03-26-02碑遠景 1986-07-01

03-03-26-03碑近景 1986-07-01

03-03-27-01碑詳細 1986-07-01

03-03-27-02碑詳細 1986-07-01

03-03-28-01碑近景 1991-10-16

03-03-28-02碑詳細 1991-10-16

03-03-28-03碑遠景 1991-10-16
三十間堀跡 <中央区銀座 8-11>

03-03-29-01案内板遠景 1987-03-21

03-03-29-02案内板詳細 1987-03-21

03-03-29-03案内板近景 1987-03-21

03-03-30-01案内板遠景 1993-03-16

03-03-30-02案内板近景 1993-03-16

03-03-30-03案内板遠景 1993-03-16
十軒店跡 <中央区日本橋室町三丁目>

03-03-31-01案内板遠景 1987-08-28

03-03-31-02案内板遠景 1987-08-28

03-03-31-03案内板詳細 1987-08-28
運上所跡 <中央区明石町 14>

03-03-32-01碑遠景 1988-05-27

03-03-32-02碑近景 1988-05-27

03-03-32-03碑詳細 1988-05-27
東華小学校 <中央区人形町 1-1>

03-03-33-01入口 1989-03-01

03-03-33-02学校の由来 1989-03-01

03-03-33-03学花の由来 1989-03-01

03-03-34-01学校遠景 1989-03-01
早川徳治の像 <中央区銀座四丁目地下道内>

03-03-35-01像 1978-11-06
わが国地下鉄建設の先駆者である早川徳次(1881〜1942 法学部卒業) の像が営団地下鉄銀座駅構内にある。
ロンドンの地下鉄に学び、東京地下鉄道会社を創立。
1927年上野〜浅草間に、日本最初の地下鉄道を開通させた。
なお東京地下鉄会社は昭和16年帝都高速度交通営団に吸収され現在に至っている。
<http://www.dentan.jp/ginza/ginza10.htmlから>
 シャープペンシルの発明などで知られる早川電機工業(現・シャープ)の創業者、早川徳次(1893−1980)の生涯は、まさに波乱万丈。天はこの人物を通して「働くことの尊さ」を教えている。努力は必ず報われる。人生は捨てたものではない。早川徳次は東京に生まれた。ちゃぶ台製造とミシンの内職をしていた父母が亡くなったため、三歳のときに養子に出される。「徳次は目ばかり大きく、青白くやせて、背も低かった。肋骨が出て腹が膨れていた。明らかに栄養失調である。ただ額が広く、大きな目をしていた」(『シャープを創った男 早川徳次伝』平野隆彰著・日経BP社)。マッチのラベル貼りなどをしながら学校に行くが、八歳のときに継母からかざり屋の店に丁稚奉公に出される。負けん気で手先の器用な徳次は十八歳のときに、ベルトに穴を開けずに使えるバックル(名前を一字とって徳尾錠)を発明した。さらに水道の自在器(水道の蛇口)を製作。これを機に二十歳で独立する。実の兄、政治とともに早川兄弟商社を設立。徳次が製作・開発で政治が販売。独立資金五十円のうち四十円は借金だった。朝四時に起床、一日の経費を朝食までに稼いでしまう。食事のとき以外は夜十時まで連日働いた。その年のうちに百二十円の利益を稼ぎ出したばかりか、借りた四十円の借金も返済した。自在器の特許も取って、事業は軌道に乗る。そして日本で初めてシャープペンシルを発明した。それまでにもシャープペンシルの原型は存在したが、壊れやすかった。徳次はシャープペンシル内部に真鍮を使うことで実用性の高いものにした。一九一五年、「早川式繰出鉛筆」をとして実用新案登録された。二十二歳のときだ。さて、シャープペンシルは和製英語。英語ではなんというか? アメリカではメカニカルペンシル(mechanical pencil)あるいはオートマチックペンシル(automatic pencil)。イギリスでは(propelling pencil)である。工場に流れ作業を導入し、従業員も二百名を超えた。すべてが順調に思えたが、過労で倒れた。奇跡的に治ったが、二三年、関東大震災で工場ばかりでなく、妻子までも失った。債務返済のためにシャープペンの特許を日本文房具に売却。一文無しになった徳次は再起をかけて大阪に。二四年に早川金属工業製作所を設立。たまたま大阪の心斎橋でアメリカから輸入された鉱石ラジオを見かけた。「これからの時代はこれだ」と直感した男はラジオ放送が始まることも知り、ラジオ受信機の研究・製作に専念する。翌二五年には、国産ラジオ受信機第一号機となる鉱石ラジオの開発に成功した。同年六月一日に大阪でラジオ放送が始まった。「おっ、聞こえた!素晴らしく明瞭だ」(『シャープの作った男』)。一同は顔を寄せ合って喜びを分かち合った。このラジオ受信機は「シャープ・ダイン」という名づけられ、量産された。徳次は新しい時代の到来を予見していた。二九年には真空管ラジオを発売。ラジオ普及とともに事業は発展していく。四二年には早川電機工業と改名。四九年に株式を公開したが、翌年、大赤字を出し倒産の危機に追い込まれる。だが、天は徳次に味方した。朝鮮特需で経営が持ち持ち直したのだ。やがて、多角化の道を進み、テレビや電卓などで総合家電へ拡大していく。六三年には日本で最初の太陽電池の量産に成功している。七〇年、徳治は会長に退き、社名はシャープとなる。その後、シャープは電卓や世界初の「14型TFTカラー液晶デスプレー」の開発に成功するなど最先端時術を誇る会社として飛躍している。事業の目的は何かと問われると徳治は「社会への奉仕」と答えた。戦後、失明者が働くための会社を設立したり、働く女性のため保育園経営もおこなった。早川徳治の生涯は男版「おしん」とも言われた。色紙に好んで書いた文字は無我を楽しむ心から「和楽」であった。
<http://www.ainoue.com/trivia/tri-34.htmlから>
明石橋付近・電信創業の地 <中央区明石町 12>

03-03-36-01碑詳細 1967-11-26

03-03-36-02碑遠景 1967-11-26

03-03-36-03明石橋から 1967-11-26

03-03-37-01明石橋から 1970-03-07

03-03-37-02明石橋を 1970-03-07

03-03-37-03由来 1970-03-07

03-03-38-01埋め立て後・明石橋から 1972-10-02

03-03-38-02埋め立て後・運上所跡 1972-10-02

03-03-38-03埋め立て後・運上所跡 1973-12-14
運上所跡東京税関発祥之地
1859年(安政6年)の開港によって諸外国との貿易が始まり、税関業務が必要となり明治元年に運上所が作られた。これが東京税関の始まりとなる。運上所は明石橋の袂にあった。<http://www.tokyochuo.net/meeting/town/fuukei/cut04b.htmlから>

03-03-39-01埋め立て後・明石町公園 1974-01-29

03-03-39-02埋め立て後・明石町公園 1974-01-29

03-03-40-01移設後の碑遠景 1979-03-15

03-03-40-02移設後の碑近景 1979-03-15

03-03-40-03移設後の碑詳細 1979-03-15
半井卜養(なからい・ぼくよう)居宅地 <中央区明石町 13>

03-03-41-01明石橋から 1979-03-15

03-03-41-02居宅跡 1980-02-13

03-03-41-03居宅跡 1980-02-13

03-03-42-01明石町公園 1980-11-14

なお表中の日付は写真撮影日を示します。

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2009-11-30作成 

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