でぃすかばー・とうきょう
歩いて見ました東京の街

第二章 千代田区
補-4 (5/9)
新徴組屯所跡 <千代田区飯田橋1-9>

02-04-01-01標柱遠景 1982-12-14

02-04-01-02標柱近景 1982-12-14
新徴組(しんちょうぐみ)は、江戸時代後期の文久2年(1862年)に結成された、江戸幕府による警備組織である。
同年2月に江戸で浪士組結成募集が行われ、京都へ上洛した後に清河八郎に率いられて江戸に戻るが、4月に清河が暗殺されると幕府により新徴組として再組織され、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事する。
屯所は江戸の本所(東京都墨田区)に設置された。1864年(元治1)に庄内藩御預かりとなる。大政奉還、王政復古により江戸幕府が消滅すると解散。
新選組幹部の沖田総司の義兄、沖田林太郎が組頭を務めているなど、新選組との交流もあった。
<wikiから引用>
北辰社牧場跡 <千代田区飯田橋1-5>

02-04-02-01標柱遠景 1982-12-14

02-04-02-02標柱近景 1982-12-14
榎本武揚は明治の始め 北辰社牧場をここに開き 幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ 当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得した 幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦するが 黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り捕われの身となる しかし彼の新知識を惜しまれて許され 新政府では幾多の要職を歴任する 一方 旧幕臣子弟の為の育英黌農業科や北辰社牧場などを作り 最盛期には乳牛が四,五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していた。

<東京のHUB駅飯田橋のむかしむかしから引用>
アーネスト・サトウ旧跡 <千代田区富士見町2-17>

02-04-03-01碑文詳細 1984-09-23

02-04-03-02碑文遠景 1984-09-23
アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow,1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。
1843年、ドイツ東部地方にルーツを持つソルブ系スウェーデン人を父、イギリス人を母(旧姓、メイソン)としてロンドンで生まれた。1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9月14日、生麦事件が勃発した。当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国していた。1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進。駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍した。1883年まで日本に滞在した。
<wikipediaから引用>
夏目漱石卒業の金華小学校と金華公園 <千代田区猿楽町1-1>

02-04-04-01夏目漱石の碑 1984-09-27

02-04-04-02夏目漱石の碑 1984-09-27

02-04-04-03夏目漱石の碑 1984-09-27

02-04-05-01公園内部 1988-02-18

02-04-05-02公園内部 1988-02-18

02-04-05-03公園内部 1988-02-18

02-04-06-01公園内部 1988-02-18
日本初のテレビ塔 <千代田区二番町14 日本テレビ構内>

02-04-07-01説明板 1985-03-04

02-04-07-02日本テレビ 1985-03-04

02-04-07-03ピラミッド 1985-03-04
道三橋跡 <千代田区大手町2-1>

02-04-08-01案内板 1985-02-10

02-04-08-02遠景 1985-02-10
和田倉掘と旧平川(日本橋川)を結ぶ道三掘が横切っていた。隣の新大手町ビルとの間の斜めに走る細い道が江戸時代の町割りの名残で、ここに道三橋が架かっていた。橋の北詰には、御普請奉行や御作事奉行の役宅があり、その向かい(新大手町ビル裏手)には、安政期、江戸城を築城した太田道潅の子孫(代々幕府の要職に就いた)の屋敷があった。
なお、道三掘、道三橋などの名の由来は、日本医学中興の祖と言われる曲直瀬正盛(初代今大路道三:足利義輝、毛利元就、織田信長などの診察をした戦国時代の名医)の養子曲直瀬玄朔(二代目今大路道三)が、二代将軍秀忠の病を治した功績で、堀筋に屋敷を拝領したことに因む。
<旅猫江戸日記から引用>
物揚場跡 <内神田1-1> 神田橋脇

02-04-09-01遠景 1986-07-01

02-04-09-02近景 1986-07-01

02-04-09-03詳細 1986-07-01

02-04-10-01詳細 1986-07-01

02-04-10-02詳細 1986-07-01

02-04-11-01標石 1986-09-01

02-04-11-02標石 1986-09-01
伊勢丹発祥の地 <外神田1-5>

02-04-12-01標柱遠景 1988-02-03

02-04-12-02標柱近景 1988-02-03

02-04-12-03標柱詳細 1988-02-03
三崎座跡 <千代田区三崎町2-11-15>

02-04-13-01案内板近景 1990-07-13

02-04-13-02案内板遠景 1990-07-13

02-04-13-03案内板詳細 1990-07-13

02-04-14-01案内板遠景 1990-07-13
 三崎三座は、神田区三崎町に設けられた三崎座・東京座・川上座を指します。
 三崎座は東京で唯一の女優が常に興行する劇場で明治24年(1891)の開設です。大正4年(1915)に神田劇場と改称し、戦災により廃座となりました。
 東京座は9世団十郎や猿之助をはじめ市川門下の若手俳優や幅広い層の役者が興行を行いました。明治30年(1897)に設立され大正4年(1915)廃座となりました。
 川上座は、明治29年(1896)「オッペケペー!」の新派俳優川上音二郎によってに設立。明治31年(1898)に川上の手を離れ明治34年(1901)に改良座と改称。明治36年(1903)に火災により焼失しました。
<千代田区観光協会のサイトから引用>
防火守護地跡 <千代田区神田泉町 2>

02-04-15-01碑遠景 1968-09-11

02-04-15-02碑近景 1968-09-11
 この碑は、関東大震災防火の地を示すもので、この付近一帯は関東大震災の折、町民が一致協力して防火に努めたところから出火を免れたもので、当時、東京が焼きなめされた中で、奇跡として市民の賞賛を受けたのだといい、この碑はその顕彰を記念するもののようだ。
 伝えられるところによると、震災で焦土と化した中で家並みの残っている光景は驚異をもって見つめられたのだということである。
<SANPOWEBから引用>
江藤新平遭難の碑 <千代田区霞が関3-8>

02-04-16-01碑遠景 1970-05-14

02-04-16-02碑近景 1970-05-14
江藤新平がこの地で襲撃されたのは、明治二年(1869)十二月二十日の夜。その日、鍋島屋敷に旧藩主直大公を訪ねた江藤は、珍しく深酔いし駕籠で帰路に。
虎ノ門に差し掛かった午後十一時頃、刺客六人が江藤の駕籠に襲いかかった。江藤は右肩に重傷を負ったが「無礼者!」と一喝すると、刺客は逃げ去ったという。
襲撃者はいずれも佐賀藩の足軽で、江藤が佐賀で断行した藩政改革に不満を募らせていたと言われる。
<佐賀県東京情報センターから引用>

02-04-17-01改修後 1975-07-03
 地下鉄虎ノ門駅周辺には、外務省や財務省などといった官庁が建ち並んでいるが、この一角にいかにも場違いな感じで金毘羅宮がある。もともとここには讃岐丸亀藩の屋敷があったらしい。金毘羅宮の近くにこれまた場違いな石碑が一つ建てられている。道行く人は多いが、この石碑に足を止める人は少ない。これが江藤新平遭難遺蹟碑である。この石碑の建てられたのは、佐賀の乱で賊名を着せられた江藤新平が特赦により復権した明治二十二年二月のことであった。 江藤新平がこの地で襲撃されたのは、明治二年(1869)十二月二十日の夜のことである。その日、葵町佐賀藩邸に伺候した江藤は、珍しく深酔いし駕籠で帰路に着いた。虎ノ門に差し掛かった午後十一時頃、刺客六人が江藤の駕籠に襲いかかった。江藤は右肩に重傷を負ったが「無礼者!」と一喝すると、刺客は逃げ去ったという。襲撃者はいずれも佐賀藩の足軽で、江藤が佐賀で断行した藩政改革に不満を募らせていたと言われる。
 明治二年というと、一月には横井小楠が京都で暗殺され、九月には大村益次郎が遭難するなど(十一月に死亡)、政府の高官が次々と凶刃に倒れる異常事態に直面していた。そこへきて江藤が襲われた。新政府の衝撃は尋常ではなく、天皇から見舞金百五十両が下賜されることになった。江藤新平の名前が新政府に重きを成すようになったのも、この事件の成果かも知れない。
<幕末維新史石訪問から引用>

02-04-18-01改修後 1985-03-13

02-04-18-02改修後 1985-03-13

02-04-18-03改修後 1985-03-13
神田青果市場発祥の碑 <千代田区神田多町 8、神田須田町1-10>

02-04-19-01碑遠景 1970-12-24

02-04-19-02碑近景 1970-12-24

02-04-20-01町の風景とともに 1976-09-17

02-04-20-02町の風景とともに 1976-09-17

02-04-20-03町の風景とともに 1976-09-17
大田円三の碑 <神田錦町 1->

02-04-21-01碑遠景 1976-03-04

02-04-21-02碑近景 1976-03-04

02-04-21-03碑近景 1976-03-04
大田円三
東京帝大土木工学科に学び、欧米留学や鉄道院工事課長を務め、関東大震災で復興院土木局長に登用される。焼け跡の区画整理事業や幹線街路整備、永代橋や清洲橋など隅田川6橋のデザイン、高速鉄道(地下鉄)計画といった復興事業を指揮した。45歳の働き盛りだったが、過度の心労のため、大正15(1926)年3月21日、自宅で自ら命を絶った。
( 2007-03-03 朝日新聞 朝刊 伊豆岳南 2地方 から引用)
特許庁と特許制度記念碑 <千代田区霞が関 3-4特許庁前>

02-04-22-01碑近景 1969-02-28

02-04-22-02碑遠景 1969-02-28

02-04-22-03碑詳細 1969-02-28

02-04-23-01庁舎 1986-07-01

02-04-23-02庁舎 1986-07-01

02-04-23-03庁舎 1986-07-01

02-04-24-01記念碑再訪 1986-07-01

02-04-24-02記念碑再訪 1986-07-01

02-04-24-03記念碑再訪 1986-07-01

02-04-25-01特許庁新庁舎 1992-04-02
愛国婦人会発祥の地 <千代田区九段南1-6>

02-04-26-01碑遠景 1980-02-06

02-04-26-02碑近景 1980-02-06

02-04-27-01碑詳細 1980-02-06
正岡子規の碑 <千代田区小川町3-9>

02-04-28-01碑遠景 1980-10-27

02-04-28-02碑近景 1980-10-27
専修大学の碑 <千代田区神保町3-8>

02-04-29-01碑遠景 1980-10-31

02-04-29-02碑近景 1980-10-31
千秋文庫博物館 <千代田区九段南 2-1-36>

02-04-30-01近景 1987-07-17

02-04-30-02付近の景 1987-07-17

02-04-30-03付近の景 1987-07-17
佐久間公園・ラジオ体操発祥の地 <千代田区佐久間町 4-19>

02-04-31-01入り口 1988-05-08

02-04-31-02内部 1988-05-08

02-04-31-03内部 1988-05-08

02-04-32-01草分稲荷 1988-05-08

02-04-32-02碑近景 1988-05-08

02-04-32-03碑詳細 1988-05-08
和泉公園 <千代田区和泉町 2>

02-04-33-01公園入り口 1988-05-09

02-04-33-02公園入り口 1988-05-09

02-04-33-03公園 1988-05-09

02-04-34-01公園 1988-05-09

02-04-34-02園内の稲荷 1988-05-09
淡路公園 <千代田区淡路町 2-27>

02-04-35-01公園入口 1988-05-26

02-04-35-02公園内部 1988-05-26

02-04-35-03公園内部 1988-05-26

02-04-36-01公園内部 1988-05-26

02-04-36-02公園内部 1988-05-26

02-04-36-03公園入口 1988-05-26

02-04-37-01公園入口 1989-02-16

02-04-37-02公園入口 1989-02-16

02-04-37-03公園入口 1989-02-16

02-04-38-0公園内部 1989/02/16

02-04-38-02公園内部 1989/02/16

02-04-38-03公園内部 1989/02/16

02-04-39-01公園入口 1989-02-16

02-04-39-02公園入口 1989-02-16
西神田公園 <千代田区西神田 2-3>

02-04-40-01公園入口 1988-09-21

02-04-40-02公園入口 1988-09-21

02-04-40-03公園入口 1988-09-21
石油資料館と石油会館 <千代田区永田町 2-11-2>

02-04-41-01石油資料館 1989-01-11

02-04-41-02石油資料館 1989-01-11

02-04-41-03石油資料館 1989-01-11

02-04-42-01石油会館 1989-01-11

02-04-42-02石油会館 1989-01-11

02-04-42-03石油会館 1989-01-11
練成公園 <千代田区外神田6-11>

02-04-43-01公園入口 1990-09-13

02-04-43-02公園内部 1990-09-13

02-04-43-03公園内部 1990-09-13

02-04-44-01公園内部 1990-09-13

02-04-44-02公園内部 1990-09-13
神田児童公園 <千代田区神田司町 2-4>

02-04-45-01公園内部 1991-02-14

02-04-45-02公園内部 1991-02-14

02-04-45-03公園内部 1991-02-14

02-04-46-01公園内部 1991-02-14

02-04-46-02公園内部 1991-02-14
日本カメラ博物館 <千代田区一番町 25>

02-04-47-01博物館 1991-03-06

02-04-47-02博物館 1991-03-06

02-04-47-03博物館 1991-03-06

02-04-48-01博物館 1991-03-06
堀留北児童遊園 <千代田区飯田橋2-1>

02-04-49-01公園入口 1991-07-18

02-04-49-02公園内部 1991-07-18

02-04-49-03公園内部 1991-07-18

02-04-50-01公園内部 1991-07-18

02-04-50-02公園内部 1991-07-18

02-04-50-03公園内部 1991-07-18

なお表中の日付は写真撮影日を示します。

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2009-11-13作成 

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