でぃすかばー・とうきょう
歩いて見ました東京の街

第二章 千代田区
補-3 (4/9)
東郷元帥記念公園 <千代田区三番町18>

02-03-01-01東郷邸旧跡 1968-09-08

02-03-01-02東郷邸旧跡 1968-09-08

02-03-01-03東郷邸旧跡 1968-09-08

02-03-02-01公園入り口 1989-06-27

02-03-02-02東郷坂 1989-06-27

02-03-02-03東郷坂下公園 1989-06-27

02-03-03-01 公園入り口 1989-06-27
お玉ヶ池跡 <千代田区岩本町2-7> お玉ヶ池種痘所跡

02-03-04-01お玉ヶ池神社 1968-09-11

02-03-04-02案内板 1968-09-11

02-03-04-03お玉ヶ池神社 1968-09-11

02-03-05-01種痘所跡 1992-04-06

02-03-05-02種痘所跡 1992-04-06

02-03-05-03種痘所跡 1992-04-06
硯友社跡<千代田区富士見町1-2>

02-03-06-01遠景 1968-09-19

02-03-06-02案内板 1968-09-19

02-03-06-03建替後 1975-12-12

02-03-07-01新案内板 1980-02-20

02-03-07-02遠景 1980-02-20
碩友社(けんゆうしゃ)は、明治期の文学結社。

1885年、尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華によって発足。「我楽多文庫」を発刊し、川上眉山、巖谷小波らが参加し当時の文壇で大きな影響を与える一派となった。紅葉の死によって解体したが、近代文体の確立など、その意義は大きい。
太田蜀山人終焉の地 と日立本社ビル<千代田区駿河台4-6>

02-03-08-01遠景 1968-07-10

02-03-08-02案内板 1968-07-10

02-03-08-03旧岸体育館 1977-07-22

02-03-09-01日立本社新ビル 1983-03-01

02-03-09-02日立本社新ビル 1983-03-01

02-03-10-01日立本社新ビル 1984-06-18
千葉周作玄武館跡・東條一堂瑶池塾 <千代田区神田東松下町22> 千桜小学校入り口(学校は2006年に取壊し)

02-03-11-01遠景 1968-08-12

02-03-11-02案内板 1968-08-12

02-03-11-03 右文尚武の碑 1968-08-12

02-03-12-01入り口遠景 1988-11-07

02-03-12-02入り口 1988-11-07

02-03-12-03案内板 1988-11-07

02-03-13-01案内板 1988-11-07

02-03-13-02千桜百年の記念石 1988-11-07

02-03-13-03案内板 1988-11-07
滝沢馬琴旧跡 <千代田区外神田3-6> 芳林小学校脇の公園

02-03-14-01遠景 1968-09-19

02-03-14-02案内板 1968-09-19

02-03-15-01芳林小学校 1988-05-26

02-03-15-02芳林小学校 1988-05-26

02-03-15-03芳林小学校 1988-05-26
塙保己一和学講談所跡 <千代田区三番町24>

02-03-16-01遠景 1968-09-08

02-03-16-02近景 1968-09-08
江戸時代中期の国学者であった、塙保己一(はなわ ほきのいち)[1746〜1821]が、1793年幕府から許されて和学講談所を設立し、講義・会読を行いました。

5歳の頃までに両眼を失明。当時、視覚障害者は医療や技芸において生活の保障がされていましたが身につかず、漢学・神道・和歌等に関心を示しました。その後15歳に江戸へ出て、24歳の頃賀茂真淵らに国学を学びました。1819年「群書類従」を完成させた編纂刊行者としても有名です。

(都市センターホテルのサイトから引用)

02-03-17-01案内板 1984-09-23

02-03-17-02案内板遠景 1984-09-23
北町奉行所跡 <千代田区丸の内1-8・東京駅八重洲口>

02-03-18-01奉行所跡 1969-01-10
写真右下あたり

02-03-18-02碑遠景 1969-01-10

02-03-18-03碑近景 1969-01-10

02-03-19-01碑近景 1969-01-10

02-03-19-02碑遠景 1987-10-27
護持院ケ原跡 <千代田区錦町3-3>

02-03-20-01碑 1970-03-02

02-03-20-02遠景 1975-03-29
「護持院ケ原」とは五代将軍綱吉がこの地に建立した密教の大寺院「筑波山護持院元禄寺」が享保2年(1717)正月の大火で焼失した跡地を「火除地」とした場所です。この広大な空き地は将軍の猟場として使用されていましたが、一般にも解放され庶民の憩いの場になっていました。
明治期以降になると、この広大な「火除地」を利用して大学南校(明治2)[現東京大学]・東京外国語学校(明治6)[現東京外国語大学]、華族学院(明治10)[現学習院]他、現在の一橋大学の前身にあたる高等商業学校(明治18)などが建設され、「警察通り」北側の武家地も町屋に変わり武家屋敷の大きな敷地を利用して学校が周辺の町々にも多く建てられました。
学生を相手に書店ができ、それに関わる出版、印刷、製本業が多く見られるようになり教育・文化の中心地となりました。戦後、爆発的に学生を中心とした若者達をタ−ゲットにしたスポ−ツ用品店が軒を並べるように建ち並び活気のある町並みへと変貌して現在に至っています。
佐野の桜 佐野善左衛門政言屋敷跡 <千代田区三番町14>大妻女子大脇

02-03-21-01案内板 1972-05-02

02-03-21-02遠景 1972-05-02
「佐野の桜」とは旗本佐野善左衛門政言(まさこと)の邸内にあった桜の名木のことです。現在は大妻女子大学のキャンパスになっています。

佐野善左衛門は、1784年3月24日幕府の実権を握っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)、その息子田沼意知(たぬまおきとも)を斬り付け、田沼意次は2日後死亡し、佐野善左衛門も4月3日切腹させられました。

田沼親子の政治には民衆からの不満もつのっていたため、田沼意次を斬り付けた佐野善左衛門は「世直し大明神」とあがめられました。ただ田沼親子を斬った原因は、私情によるものとも言われています。

(都市センターホテルのサイトから引用)

02-03-22-01遠景 1980-10-31

02-03-22-02案内板 1980-10-31
お玉ヶ池種痘所跡 <千代田区岩本町2-5>

02-03-23-01碑遠景 1972-05-10
料亭「ふな亀」の旧建物

02-03-23-02碑近景 1972-05-10

02-03-23-03碑近景 1972-05-10

02-03-24-01碑近景 1972-05-10

02-03-24-02碑詳細 1972-05-10

02-03-24-03

02-03-25-01案内板 1971-11-26

02-03-25-02碑遠景 1975-03-20

02-03-25-03碑近景 1975-03-20

02-03-26-01ふな亀ビル改築後 1987-02-27

02-03-26-02ふな亀ビル改築後 1987-02-27
旗本長屋門 <千代田区富士見町2-7>

02-03-27-01遠景 1966-11-22

02-03-27-02案内板 1966-11-22

02-03-28-01建替後 1984-07-31

02-03-28-02建替後 1984-07-31

02-03-29-01案内板詳細 1989-07-17

02-03-29-02案内板近景 1989-07-17

02-03-29-03案内板遠景 1989-07-17

02-03-30-01付近の風景 1989-07-17

02-03-30-02付近の風景 1989-07-17
泉鏡花旧跡 <千代田区六番町3>

02-03-31-01案内板詳細 1975-08-29

02-03-31-02案内板遠景 1975-08-29

02-03-31-03案内板遠景 1975-08-29
島崎藤村旧居 <千代田区六番町13>

02-03-32-01島崎藤村旧居 1975-09-29
幸橋跡 <千代田区内幸町1-4>

02-03-33-01案内板遠景 1976-05-10

02-03-33-02案内板詳細 1976-05-10

02-03-34-01案内板遠景 1976-07-24

02-03-34-02 東電ビルと案内板 1976-07-24
鎌倉河岸跡 <千代田区大手町2-3>

02-03-35-01案内板 1976-09-02

02-03-35-02丸の内方面 1976-09-02

02-03-35-03神田方面 1976-09-02
湯女風呂跡 <千代田区神田司町二丁目付近>

02-03-36-01司町二丁目 1977-01-25

02-03-36-02地下鉄工事中 1979-03-23
江戸時代初期のこの地には、堀丹後守(ほりたんごのかみ)の屋敷前に銭湯が出来た時期がありました。湯女(ゆな)を抱えて営業した、今で言うなら風俗営業のお風呂ですね。丹後守の屋敷前にあったので「丹前(丹前)風呂」と呼ばれて大繁盛したそうです。
 この風呂に出入りした旗本や奴(やっこ)たちが、湯冷め防止を兼ねて綿入れの羽織を羽織って伊達を競ったそうで、「丹前風」などと言われました。これが冬の防寒用によく着た「丹前」の語源になったのです。
「神田かんだ」から引用
通船屋敷跡 <千代田区外神田1-15>

02-03-37-01井沢弥惣兵衛屋敷跡 1977-01-29

02-03-37-02井沢弥惣兵衛屋敷跡 1977-01-29
見沼通船の運用のために、幕府より高田家と鈴木家に通船差配権と、通船屋敷および見沼代用水沿いに通船会所を設置する用地が貸し出された。さらに見沼代用水の用水路の独占通行権と積荷の自由が与えられた。
1731年に見沼通船堀が開削され、江戸との接続が確保された。また通船堀近くの八丁を始め、川口宿、新染谷村、北袋村、に会所が置かれ、以後通船が本格化した。
見沼通船が開始された当初は、なまず船が38隻、艀が2隻であった。しかし船の破損などにより1803年以降は全部で32隻の船が使われた。
<Wikipediaより引用>

伊沢弥惣兵衛為永は和歌山県の百姓の子として生まれ、長じて紀州藩に仕え、卓越した土木技術が認められて徳川吉宗より享保8年幕臣に登用され、以来15年間亘り土木治水事業に携わり、北陸、近畿方面でも活躍し、その足跡を残している。

02-03-38-01屋敷跡・万世橋警察あたり 1979-02-23

02-03-38-02屋敷跡・万世橋警察あたり 1979-02-23

02-03-38-03旧万世橋駅 1979-02-23
都復興計画原点 <千代田区九段南1-6>

02-03-39-01原点遠景 1978-07-28

02-03-39-02原点詳細 1978-07-28

02-03-40-01原点遠景 1988-02-03
天文台躋寿館 <千代田区佐久間町2-8>

02-03-41-01
延享元年(1757)年、それまでは火除地となっていた神田佐久間町二丁目に、火災で燃えた麹町平河町の代地が移って来ましたが、その裏手には八代将軍吉宗の命で作られた「測量所」が作られ、宝暦7年(1757)までの13年間、ここで暦の作成や気候などの測量や研究を行っていました。
延享3年の江戸御府内地図です。右端の和泉橋の名がある道が昭和通り、左端の新橋(美倉橋)が清洲橋通りです。藤堂和泉守の屋敷は、後に神田和泉町になっています。
この測量所は、多くの歴史資料には『天文台』として紹介されていますが、天文台とまでの能力は無かったようです。

「説明不足の『佐久間町天文台』から」引用
小栗上野介忠順屋敷跡 <千代田区駿河台1-6&8>

02-03-42-01主婦の友ビルあたり 1979-08-13

02-03-42-02主婦の友ビルあたり 1979-08-13

02-03-42-03主婦の友ビル近く 1979-08-13

02-03-43-01主婦の友ビル 1980-12-06

02-03-43-02主婦の友ビル横 1985-03-04

02-03-43-03案内板 1985-03-04

02-03-44-01左主婦の友社 1985-03-04

02-03-44-02 1988-01-28
02-03-44-02の写真説明
写真右側の旧主婦の友社ビルは野村証券が利用しており、主婦の友社は左側の新ビルに移動した。
山下橋・門 <千代田区有楽町2-1>

02-03-45-01案内板 1980-12-01

02-03-45-02旧橋はガード下 1980-12-01

02-03-45-03旧橋はガード下 1980-12-01
日本大学大學発祥の地 <千代田区飯田橋3-5>

02-03-46-01標柱遠景 1982-12-14

02-03-46-02標柱詳細 1982-12-14

02-03-46-03標柱詳細 1982-12-14

02-03-47-01標柱詳細 1982-12-14

02-03-47-02日本大学記念碑 1986-02-27

02-03-47-03日本大学記念碑 1986-02-27
日本赤十字社跡 <千代田区飯田橋4-5>

02-03-48-01標柱遠景 1982-12-14

02-03-48-02標柱詳細 1982-12-14
甲武鉄道飯田町駅跡標柱 <千代田区飯田橋3-1>

02-03-49-01この路地を入ったところが駅 1982-12-14

02-03-49-02標柱 1982-12-14

なお表中の日付は写真撮影日を示します。

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2009-11-11作成 

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