でぃすかばー・とうきょう
歩いて見ました東京の街

第二章 千代田区
補-1 (2/9)
赤坂見附付近

02-01-01-01見附跡 1970-03-03

02-01-01-02見附跡 1970-03-03

02-01-01-03東急プラザホテル 1970-03-03

02-01-02-01東急ホテル 1985-04-03

02-01-02-02 プリンスホテル 1985-04-03

02-01-03-01紀国坂から 1967-01-08

02-01-03-02弁慶橋を 1967-01-08

02-01-03-03ホテルニューオータニ 1967-01-08

02-01-04-01弁慶橋付近から1967-01-08

02-01-04-02弁慶橋付近から1967-01-08

02-01-04-03弁慶橋 1967-01-08

02-01-05-01赤坂見附付近 1967-01-08

02-01-05-02赤坂見附付近 1967-01-08

02-01-05-03赤坂見附付近 1967-01-08

02-01-06-01赤坂見附付近 1967-01-08

02-01-06-02赤坂見附付近 1967-01-08

02-01-06-03赤坂見附付近 1967-01-08

02-01-07-01赤坂見附付近 1973-03-20

02-01-07-02赤坂見附付近 1973-03-20

02-01-07-03赤坂見附付近 1973-03-20

02-01-08-01山王ホテル 1976-04-16

02-01-08-02山王ホテル 1976-04-16

02-01-08-03赤坂見附方面 1989-10-27

02-01-09-01弁慶濠 1977-05-13

02-01-09-02紀尾井町から四谷駅 1989-10-29

02-01-09-0302-01-09-02紀尾井町から四谷駅 1989-10-29

02-01-10-01弁慶橋付近 1980-02-09

02-01-11-01道路橋 1993-08-05

02-01-11-02道路橋 1993-08-05

02-01-12-01赤坂プリンスホテル 1993-10-11

02-01-12-02赤坂プリンスホテル 1993-10-11

02-01-12-03赤坂プリンスホテル 1993-10-11

02-01-13-01溜池側から赤坂見附を 1994-02-22
有楽町界隈

02-01-14-01寿司屋横丁 1967-05-24

02-01-14-02寿司屋横丁 1967-05-24

02-01-14-03寿司屋横丁 1967-05-24

02-01-15-01日劇と朝日新聞社 1967-05-24

02-01-15-02 有楽町駅から1967-05-24

02-01-15-03寿司屋横丁 1968-09-08

02-01-16-01日劇と朝日新聞社 1973-12-19

02-01-16-02数寄屋橋跡 1976-09-23

02-01-17-01マリオンビル 1984-10-10

02-01-17-02マリオンビル 1984-10-10

02-01-17-03マリオンビル 1984-10-10

02-01-18-01マリオンビル 1984-10-10

02-01-18-02マリオンビル 1984-10-10

02-01-18-03映画街 1984-10-10

02-01-19-01映画街 1984-10-10

02-01-19-02映画街 1984-10-10

02-01-19-03映画街 1984-10-10

02-01-20-01マリオンビル 1985-04-23

02-01-20-02マリオンビル 1985-04-23

02-01-21-01日比谷映画館跡 1987-12-22

02-01-21-02日比谷映画館跡 1987-12-22

02-01-22-01数寄屋橋跡 1987-12-22

02-01-23-01映画街 1990-07-26

02-01-23-02映画街 1990-07-26
霞が関ビル

02-01-24-01近景 1968-04-20

02-01-25-01遠景 1968-04-20
神田付近

02-01-26-01如水会館 1972-09-22

02-01-26-02如水会館 1976-03-14

02-01-26-03神保町東洋キネマ 1980-09-30

02-01-27-01如水会館 1982-12-01

02-01-27-02如水会館 1982-12-01
一ツ橋学士会館

02-01-28-01学士会館 1987-01-10

02-01-28-02学士会館入り口1987-01-10
一つ橋付近にある「その他」

02-01-29-01料亭「神田川」 1987-01-29

02-01-29-02天理ギャラリー 1978-10-14

02-01-29-03天理ギャラリー 1978-10-14

02-01-30-01九段坂下の古い建物 1976-03-15

02-01-30-02千代田区役所 1985-02-26

02-01-30-03千代田区役所 1985-02-26

02-01-31-01千代田区役所 1985-02-26
左の写真に古い都営住宅が写っている。

02-01-32-01練塀町付近 1976-10-12

02-01-32-02練塀町付近 1976-10-12
 練塀(ねりべい)とは、瓦(かわら)と練土(ねりつち)を交互に積みあげ、上を瓦で葺(ふ)いた土塀(どべい)のことです。瓦と土の織(お)りなす縞模様(しまもよう)が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。

 江戸時代のこの界隈(かいわい)は、練塀が一帯に広がる武家地でした。ことに南北に神田から下谷(したや)まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、「下谷練塀小路」と呼ばれていました。古い資料を見てみると、「町の南隅(みなみすみ)の河野某(なにがし)の屋敷の練塀が立派だった」とあります。

 また、ここには歌舞伎『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』や講談『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』で有名な御数寄屋坊主(おすきやぼうず)、河内山宗春(こうちやまそうしゅん)も住んでいたといわれています。

02-01-33-01外神田・元祖黒焼 1978-07-17

02-01-33-02外神田・元祖黒焼 1978-07-17

02-01-33-03外神田・元祖黒焼 1978-07-17
駿河台

02-01-34-01駿河台中央大学 1980-03-26

02-01-34-02駿河台中央大学 1980-03-26

02-01-35-01駿河台中央大学 1980-03-26

02-01-35-02駿河台中央大学 1980-03-26

02-01-35-03駿河台 1980-03-26

02-01-36-01主婦の友社ビル 1985-04-05

02-01-36-02お茶の水駅近く 1985-04-05

02-01-36-03明治大学1号館 1985-04-05

02-01-37-01YWCA 1987-12-01

02-01-37-02YWCA 1987-12-01

02-01-38-01明治大学 1989-09-30

02-01-38-02明治大学 1989-09-30

02-01-38-03明治大学 1989-09-30
柳原神社

02-01-39-01柳原神社 1966-05-18

02-01-39-02柳原神社 1966-05-18

02-01-39-03柳原通 1966-05-18

02-01-40-01柳原通 1976-07-24

02-01-40-02柳原神社 1976-07-24

02-01-41-01柳原神社境内1976-11-26

02-01-41-02柳原神社境内1976-11-26

02-01-42-01柳原神社境内1977-03-14

02-01-42-02柳原神社境内1977-03-14

02-01-42-03柳原神社境内1977-03-14
神田明神

02-01-43-01入り口鳥居 1966-11-22

02-01-43-02入り口鳥居 1966-11-22

02-01-43-03本殿 1966-11-22

02-01-44-01境内 1968-09-19

02-01-44-02入り口鳥居 1972-06-10

02-01-44-03入り口鳥居 1972-06-10

02-01-45-01祭礼 1976-05-16

02-01-45-02祭礼 1976-05-16

02-01-45-03祭礼 1976-05-16

02-01-46-01祭礼 1976-05-16

02-01-46-02祭礼 1976-05-16
Wikipediaから

神田明神(かんだみょうじん)は、東京都千代田区外神田二丁目にある神社。正式名称「神田神社」。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神。旧社格は府社(1870年まで准勅祭社)。現在は神社本庁の別表神社となっている。また旧准勅祭社の東京十社の一社である。

歴史
社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。

承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(1303年 - 1306年)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。

江戸時代、江戸城増築に伴い現在地に遷座した。江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車(当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した)は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われる。現在「神田囃子」は無形文化財に指定されている。江戸初期に豪華な桃山風社殿が造営されたが、1923年の関東大震災で焼失した。その後再建され、1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れた。

明治元年、准勅祭社に指定されたが、明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。

また、野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次が当神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、敷地内に「銭形平次の碑」がある。銭形平次は架空の人物である。

02-01-47-01祭礼 1976-05-16

02-01-47-02祭礼 1976-05-16

02-01-48-01旧万世橋石柱 1979-04-28

02-01-48-02旧万世橋石柱 1979-04-28

02-01-49-01祭礼 1983-05-15

02-01-49-02祭礼 1983-05-15

02-01-49-03祭礼 1983-05-15

02-01-50-01祭礼 1983-05-15

02-01-50-02祭礼 1983-05-15

02-01-50-03男坂 1984-06-08

02-01-51-01銭形平次の碑 1986-12-02

02-01-51-02銭形平次の碑 1986-12-02

02-01-51-03八五郎の碑 1986-12-02

02-01-52-01銭形平次の碑 1986-12-02

02-01-52-02銭形平次の碑 1986-12-02

02-01-53-01神社裏の宮本公園 1988-08-09

02-01-53-02神社裏の宮本公園 1988-08-09

02-01-53-03神社裏の宮本公園 1988-08-09
日枝神社

02-01-54-01鳥居 1968-09-18

02-01-54-02本殿 1968-09-18

02-01-54-03本殿 1968-09-18

02-01-55-01本殿 1968-09-18

02-01-55-02境内 1968-09-18

02-01-55-03鳥居 1968-09-18

02-01-56-01境内 1968-09-18

02-01-56-02境内 1968-09-18

02-01-56-03境内 1968-09-18

02-01-57-01境内 1975-09-11

02-01-57-02境内 1975-09-11

02-01-57-03周辺 1975-09-11

02-01-58-01節分会 1978-02-03

02-01-58-02節分会 1978-02-03

02-01-58-03節分会 1978-02-03

02-01-59-01節分会 1978-02-03

02-01-59-02節分会 1978-02-03

02-01-59-03節分会 1978-02-03

02-01-60-01祭礼 1978-06-12

02-01-60-02祭礼 1978-06-12

02-01-60-03祭礼 1978-06-12

02-01-61-01祭礼 1978-06-12

02-01-61-02祭礼 1978-06-12



日枝神社の由来はこちらへどうぞ。

なお表中の日付は写真撮影日を示します。

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2009-11-09作成 

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